歴史と証言

個人的感想だが、歴史で証言を重視すると思想的デッドロックにはまる。私はその理由を“個人の哲学が一生揺れ動かない人がいないから”と分析している。
清朝最後の皇帝、溥儀はその一生を長いものに巻かれることで生きてきた。清朝が倒れて、満州族満州に戻った頃、建国で日本を褒めちぎった。最後には中国共産党に洗脳され、日本批判をしている。弟の溥傑はそんな兄の生き様を批判しているようだ。
戦争体験者として有名な人も、戦後のアイデンティティ確立に失敗し日本軍批判に大きく舵を切った人が多い。ところが無名の戦争体験者とは違った証言であることが多いようだ。NHKの歴史番組取材班がやはり同じような感想を漏らしていた。“有名な方のところで取材して、ウラをとろうと周辺の方々に取材すると、その有名な方の証言がウソであることも多い。”と言っていた。
証言を軽視するのではない。職業として元日本軍と名乗る人だけでなく、誰がいつどこで何のために発言したものかわからない証言は何であれ疑う。いくつもの史料をつきあわせて考えてみる。それは歴史を学ぶものの良心である。