悪って何だ?

  • 無知は悪か?
  • 空気を読まないのは悪か?
  • 思考停止であることは悪か?
  • 差別は悪か?

日記などで最近よく取り上げられていて、おおまかに悪であるような書き方をされているのを見ると私は違和感を感じる。

無知について

人間は無知の自覚から始まる。たとえ無知を自覚しても知ろうとしない場合がほとんどで、たとえ知っても実行しないのがほとんどである。それは過去の自己認識を否定する作業とほとんど同じであり、これを他人が強要するべき問題ではない。これはそれぞれにおいて経験や感性のバランスがあると私は考えている。よって一般に無知からスタートしたものは悪ではない。
これには例外がある。無知であってはいけない性格のものや無知であるのに発言力のある人の場合は、責められてもしかたがない*1と考える。

空気を読まないことについて

“空気が読めない人が増えた”などと聞くと、“またかー”と思う。たしかに個人的な実感としてはそういうものはある。ここで考慮すべき事項は“日本人は他民族より空気を読める”ということである。次に考えるべき事項は、“コミュニケーションの手段が増えている”ことではないかと考えている。
私がケータイを買って使い出した12年前はケータイを持っていたのは変わり者かヲタクだけだった。鳴らないケータイを維持するのにキャリア*2につぎ込んでいたようなものだろう。コンピュータの主にWebまわりがIT技術などといわれるようになった前世紀末あたりから、空気が読めない人が増えたように思う。
空気が読めない人というのは感覚的なものだから、つねに一定比率で存在すると考えるほうが自然である。その人たちが連携しやすい空間がWebに登場したというだけのことではないのだろうか?Webというものはリアルの発言力にかかわらず並列で扱われるものが多い。そのために空気が読めない人が目立つ。ただそれだけのことのように感じる。

思考停止について

最近よく聞くようになった言葉である。「〜について思考停止していた。〜しなければ…」のように使われていて、思考が善で進歩、思考停止が悪で退歩のように使われていることが多い。これは極端過ぎないだろうか?まぁ、使う人が限られているので極端になりがちなのかもしれないが…。
もちろん人間は言語*3によって思考することの出来る動物である。その脳によって人間は力が弱いながらも生き延びてきた。“思考停止”とわざわざ認識しているということは、その人が脳を使っていなければ生死にかかわるという状況ではないことになる。これは脳に余裕がある表れではないのだろうか?
現実の人間の脳は不必要な思考はしなくなるようにできている。文字を読み書きし始めた頃には美しい文字の形を追求できないが、慣れてきたら追及したりする。車にのりはじめたころには歌を歌う余裕はないが、慣れてきたら歌も歌える。さらにラジオの交通情報を聞いて、迂回路を考えたりする。非日常だったことが日常になっただけである。これは思考停止とは言わない。思考停止とはこれと同じことで、日常になっただけのことではないのだろうか?非日常のまま思考停止していたら危険かもしれないが、そうでなければたいした問題ではない。

差別について

学校では“差別はいけない”と習ってきた。ところが現実社会に差別はあると感じる。何が差別かは時代や土地た民族などの条件によって意識は異なるが、おそらく差別そのものは感じているだろう。
では人間以外の動物には差別はないだろうか?私はあると考えている。必死で生きていれば、より優秀な遺伝子を残そうとする。こういうところからすでに差別ははじまっているような気がする。
人間ひとりを取り上げて考えてみると、人によって過去の経験が異なるため多少の違いはあれど、自分にとっていい結果をもたらす人といい結果をもたらさない人を区別するのは自然な流れである。より効率よくより自然に生きるためにはそれらを取捨選択する必要に迫られる。差別とは個人の選別した結果がグループで共通した意識と一致しているだけのことで、人間が生存本能と自衛本能を持っている限り消せないものではないかと考えている。
グループとして認識する差別*4についても子孫が繁栄するために組み込まれた本能の1つなのではないかと考えている。解決手法として“差別はいけない”というだけでは危険なのではないかと考えている。

*1:例えば東大法学部出身民主党岡田元党首の法律音痴国会答弁

*2:ケータイの回線業者のこと

*3:主に母国語

*4:民族差別や容姿差別など