一昔前、噂の真相への寄稿依頼があった
私のベースとして根底にあるもののひとつに、
とある事件に巻き込まれ、いろんな人を巻き込んだ
というとてもにがい*1経験がある。
私とOS/2
最初に仕事で触れたのがOS/2 J1.21 OEM版。開発言語はMS-C v6.00。マイクロソフトとIBMが蜜月のころの製品だ。私はサラリーマンをしていてこの汎用機との通信関係を主に担当していた。
先に、この製品にたいする個人的意見を述べておく。
荒削りなOSだが、設計がよければ24時間365日立ち上げっぱなしの業務でもそれなりに動作し、開発環境もそれなりであったと思う。16ビットOSのためメモリのやりくりに苦労したが、バグはあれどAPIはそこそこ整備されていたし、ほどよく枯れていて業務用として使いやすいプラットホームであった。
昔のATMでは使われていたし、金融再編の波に飲まれてないところはいまでも使っているところもあるのではないかと思う。 現実に日本アイ・ビー・エムはいまだに保守をおこなっている。
メジャーバージョンアップは10年近く行われていないが、一般に対する保守は表向きまだやっていることになっている。企業が高額なサポート契約を結べばまだ使われる可能性も残されてはいるが、OS/2での新規開発は今世紀に入ってからのものは耳に入ってきていない。前世紀のものでも業務では15年ぐらいは平気で使われるので、たぶん2015年ごろまでは残るのだろう。
OS/2の歴史
次に、この製品の歴史について語りたい。
アメリカでのOS/2
アメリカでのv1.x,v2.xはほとんど注目されないまま終わる。
MS-DOSでWindows 3.0が動作しだす。内部設計はマイクロソフトだが、Windows 3.0のユーザーインターフェースはIBMのCUA89*2に準拠して作られている。インターフェースはIBMの著作物だったのである。*3OS/2 v1.x PM*4もCUA89に準拠している、CUA98はOS/2にかかる架け橋としての役割を担っていたのである。
Windows 3.0ではIBMの思惑通りだったが、次のWindows 3.1はExcel等がCUA89を無視するような動き*5を見せる。IBMは次のOS/2強く推進するためWindowsの開発を遅らせることを進言し、マイクロソフトははぐらかす。
私はWindows 3.x OS/2 v1.xで採用されたCUA89は失敗作だと考えている。とても使いにくいからである。その失敗の元はプログラムマネージャとファイルマネージャという2種類のプログラムが連携をとらない独自のアプリケーションだったからであると信じている。
IBMもそれに気づいたのか、CUA91*6というデスクトップメタファーを採用した使いやすいオブジェクト指向の次世代のユーザーインターフェースを考案、IBMの開発したOS/2 v2.x以降はそれに則ったものとなる。
マイクロソフトはIBMにはOS/2 v3を全面的に作るとという契約にこぎつけるが、中身はWindows NT 3.xであった。IBMとの契約が残っているため、多少のOS/2のCUI系APIが搭載されてはいるものの、GUI系のAPIは1つも搭載されていない。*7IBMとの会議の席上で、マイクロソフト側担当者が隠しきれなくなって
と発言したところから大きな騒ぎに発展。マイクロソフト側の完全なる契約違反ではあるが、当時のIBMは沈みかかった大きな船のように言われており、分社化を推進中であった。IBMの利益のかなりの部分を占めていたIBM PCC*8の横槍もあり、OS/2はIBM PSP*9が推進し、PCCはマイクロソフトと仲が良いという奇妙な三角関係になった。
ナビスコというIBM主要顧客のビスケット会社からルー・ガースナーというCEOが再建のためにやってくる。大変優秀な企業家で、分社化しつつあったIBMを統合へむかわせ、V字回復を成し遂げIBMではかつてない最高収益を更新し続けた。後に彼の著作で知るのだが、IBMのOS/2事業撤退は就任したときにほとんど決定事項だったそうである。彼が明言していれば日本で私がにがい思いをしなくてもすんだ可能性もあるが、過去のことを言っても仕方のない話・・・
日本でのOS/2
日本では大型の組み込みの案件が多く、銀行ATMなどを開発するために情報処理各社にOEMされた。NTT104番号案内やテレビショッピングの自動応答やテレクラなども開発しやすかったのかOS/2を使っていたようである。バージョンでいうと1.0x〜1.2xの頃である。1.3xはIBMが開発したが、権利の関係上?かOEMされなかった。
v2.xはWindows 3.xとの連携機能があるものの、ほとんど注目されないまま終わる。国内ではマイケル富岡のCMしていたプロミスの無人契約機“いらっしゃいましーん”がv2.0で動作していた。他社の無人契約機が完全有人であったのに対し、プロミスのは完全無人を実現していた。OS/2が登場する以前からシステム設計を始めていたらしいので、OSの選定からはじめたそうだが最終的に開発プラットホームにOS/2 v2.0を選んだとのことである。IBMとの高額な保守契約でぴーぴーいっていたが、いまのプロミスの無人契約機は自動契約機という名前になっているので、完全無人でもなくOS/2ではないのではないかと思われる。
v3.xはWarpと名前をつけ、山口智子のテレビCMもOSの宣伝にしてはそこそこ好評であった。より良いDOS,WindowsとしてMS-DOSの後継・Windows 3.xの対抗馬、次世代の標準を目指して開発されたものである。OS/2のプラットホームの利点や差はあったが、売り上げに結びつかない。そんな状況が1994年から1年間ぐらい続く。一言で言ってしまえばIBMは企業相手の営業は得意だが、個人相手は不得手であったからだ。PCC以外では過去に例がないからである。
決定的な差がつくのは1995年末にマイクロソフトから最初のWindows 95がでてからである。OS/2と比較して大きな利点があったわけではない。新しい技術が投入されたわけでもない。メタファーも大きな違いはないし、マルチスレッドやプロセス間通信はむしろOS/2のほうがはるかに優秀といえた。しかし使える商用ソフトウェアはOS/2にはなくWindowsにはあった。にがい経験をしたのはこの頃である。
IBMとマイクロソフトのもっとも大きな違いを述べよといわれれば、答えは明確かもしれない。IBMはカスタマー*10と連呼し、マイクロソフトはデベロッパー*11と連呼している。この2社の違いはすべてのハードウェアやソフトウェアを提供するか否かである。IBMはIBM PC関連以外は自社開発のハードウェアとソフトウェアを提供してきた。マイクロソフトはソフトウェアプラットホームであるOSをメーカーにOEM提供し、主なアプリケーションを開発することで収益を上げている。マイクロソフトとサードパーティのアプリケーション開発に差はあるかもしれないが、参入障壁が低くアイディア次第ではそれなりの地位を確保できた。この差が売り上げに現れたのである。
v4.xはむしろJavaシフトの意味合いが強い。最も高速なJavaVMがIBMのOS/2であったからである。以後、Software Choiceという名のマイナーバージョンアップは行われたが、メジャーバージョンはアップしなくなる。
とてもにがい経験について
登場する派閥は大まかに3つ。
以後、この数字で語ることにする。
内容証明郵便送付事件顛末
1はOS/2 Warp v3.xの出来の悪さとIBMの対応の悪さに辟易し、リーダー2人もちんけであったため、3にとっていい状態にはなかった。3は情報操作上、1を見捨て2に持っていこうとした。宴会を中心とした3の工作がおこなわれていることを、大阪宴会に参加・3のMLへの参加もして知ってはいたが、Warpは顧客にむけてやる気のないOSであると考えていたので、非主流派としてゆっくりと沈んでいくぶんにはなにもするつもりはなかった。実は1〜3のリーダー格の人間が知らない状況を私はたくさん知っている。すでにそのころには私を影で応援する人がたくさんいて情報が集中するようになっていたのである。
1のリーダー2人はちんけな人間であることは先に語ったが、2や3はもっとちんけであった。とたんに雰囲気が悪くなり抜け忍は許さずのような状態になり脅しつけ宴会に参加させるような事態が発生し、さすがに黙ってはいられなくなった。
日本アイ・ビー・エムの社員が引き起こしたこの事態は会社の総意か返答をいただきたい。
上記のような状況を説明したものを日本アイ・ビー・エムの代表取締役および広報にFAXした。同一内容を到着通知つき郵便として発送した。私の住所も電話も実名も書いたが、返答はなかった。どうせまともな返答がもらえるとは思っていなかったので返事がないことについては何も言うつもりはない。この時点での私の真意は2と3の暴走を止め、脅しつけの刃を私に向けることにあった。これが私が一部で怖いといわれる所以の内容証明郵便送付事件である。尾ひれがついてしまってはいるが、私自身は内容証明郵便は出したことがないと言明する。
くーさん刺殺の顛末
当時はパソコン通信最大手の1つだったニフティサーブのOS/2フォーラム(FOS2)での論争がつづく。論陣を張っているのは2と3対私1人。1日数時間は文章を練っていたため、いつのまにか文章に力がつくようになってしまった。
私が説明している内容は1点にしぼられるかもしれない。
一般人が日のあたるところにいるべきで
そうでない人は日のあたらないところにいるべきである
この時点で、すでに明白になった事実を信じたくない人たちがいたのである。それはOS/2はすでに非主流派に分類されたというとても簡単な内容である。こんな論争ともいえない言い争いが平行線をたどるのはあたりまえのはなしで、どこかで止めるべきであろう。だが私は続けた。それはなぜか?私への脅しつけが命を奪う話にまで発展したからである。これが有名な「くーさんを刺す」といわれた事件である。私もその後1年ぐらいは自分の部屋に入るときに注意していた。
2つの事件の後
私がこの2つの事件をコミカルかつ毒の入った文章で紹介したため、2と3の暴走はしぼんだ。私の意図どおりになったのである。その事件は私の文章の力として知識や知恵として深く刻まれている。これ以降、よほどのことがない限り驚かなくなったのもその1つである。知識よりむしろ勘と知恵を信じるようになったのもこの頃である。
私の直近にいる人にも言っていないのでこれはほとんど誰も知らないと思うが、その顛末を噂の真相という雑誌で書かないかという依頼があった。執筆も共同執筆も取材もあらゆる協力に応じない態度を崩さなかったため実現はしなかった。もし実現していれば日本アイ・ビー・エムが激震することは間違いなかっただろう。問題をこれ以上大きくしたくはなかったし、周囲は腐っていたが、OS/2自体には思い入れがあったというのもある。
社員と結託した野郎の悪事と呼べる証拠も2005年6月までは保存していた。現在はすべて破棄したが、もともとこの事態を記録する気はない。現在新しく知り合う人に私のベースとなっている体験を聞かれることが多いので人物が特定できない程度に記述することにした。これをはじめて読む人は信じられない話かもしれないが、WindowsでもないMacintoshでもないOSにこれほど熱く入れ込む人間がそれなりにいたのである。
おわび
腐った人間の一部が私の文章を試す経験値としていい検体となったことは確かだが、状況がわからず意味なく擁護した無関係の人間もおそらく巻き込んでしまっただろうことについては、いまさらながらにお詫びをいたしたい。申し訳ございませんでした。
*1:と本人は認識している
*3:今でもShift+Deleteでカット、Ctrl+Insertでコピー、Ctrl+Insertでペーストができるものがあるが、これはCUA89の名残である。かなりのアプリケーションが対応している。探してみてはいかがだろうか?
*4:Presentation Manager GUIの名称
*5:CUA89ではマウスなしのオペレーションがすべてにおいて可能でなければならなかった。
*7:NTはNT3,NT4,2000,XP,2003とすべてにわたっていまだにOS/2のCUI系APIが搭載されている。私もNTがバージョンアップするたびRED(OS/2版)は欠かさず持ち歩き使っている。いまどき文字コードがSJISしか使えないものの、手放せないものの1つである。
*8:Personal Computer Companyという社内ベンチャー組織、いまや歴史となったIBM PCを作ったところ
*9:Personal Software Products
*10:customer (大手)顧客
*11:developer 開発者