男女の言語感覚の差である
もちろん鋭い人もいる。ただそれは第六感というものではなく、男性がバカなだけである。
男の鈍感さ
一般に男性の浮気がばれるのは女性が鋭いからではない、日常の繰り返し作業と化している一部の言動やドアノブの持ち方やドアを開けるスピード、靴の位置、風呂と食事と休息の順番など変わる部分がたくさんあるからだ。これは言語感覚の高い人間ほど優れている。と私は考えている。
私の母親はわりとカンが鋭かった。父親の友人の家庭の不和を父からの話を聞いているだけでよく見抜いたものである。また、それより長く付き合っているはずの父親は最初は半信半疑で実際に当たっていたなんて光景を何度も目撃してきた。
あと、私は理系の女性をあまり好きにならなかった。付き合った女性は主に文系に秀でていて、言語感覚の豊かな人が多かった。*1その一部の女性のカンが鋭かったので、女性一般的にそれは当てはまるものだと考えていた。
最近になって私より鋭いと感じる女性はいなくなってしまった。母親でさえそう感じる。私に言い当てられてびっくりすることがあるそうだ。こないだも友人女性に自分が過去に決めたことを言い当てられてびっくりしたという話をしていた。母親が歳を取ってカンが鈍っただけ?そういう面もあるかもしれない。25歳以降の私の言語感覚の成長が著しかったからだ。著しく成長しなければならない状態に追い込まれた*2というほうがより近い表現かもしれない。ちなみに子どものころの国語はひどいもので、偏差値35〜45をうろうろなんてとりあえず日本人ではない、京大霊長類研究所サルと比較しても勝てるかどうかわからない。
主観でモノを申せば、男性の言語感覚のピークは30より上ある。それに対して女性は20にはたいていピークを越している。しかもピークで比較しても女性のほうが高い。一般に言われるようにカンがいいのではなくて、男性の言語感覚が乏しいだけである。
言語感覚とは
日本語をうまく操る能力ではない。日本語の難しい単語を覚える能力でもない。言葉を感じる能力のことである。もちろん、どもり症の人にも言語感覚が高い人がいる。そういう言語感覚の高い人はその人間の本質を短い動作と単語だけでつかんでしまう。よくあたると評判の占い師は占い能力もあるのかもしれないが、少なくともこういう能力の高い人でないと勤まらないのではないだろうか?
桁外れの言語感覚
たまに言語感覚が桁外れに高い人がいる。そういう人には普通の生活では一生お目にかかることはないのだが、私は遭遇したのでラッキーだと思っている。そういう人は古文をそのまま理解してしまったりするが、文法は説明できない。それだけ高い能力を有する人の場合、かなり高い確率で躁鬱*3という精神症を発症しているようだ。逆に躁鬱だからといって言語感覚が高いとは限らない。文化・芸術方面に才能を発揮したりする場合もあるが、何をやってもダメな人もいる。
私は人を観察するのが好きである
私は観察モードのときはおとなしい。観察するときのポイントは最初は外見である
- 男性だったら 外見美醜 身長 体型 服装
- 女性だったら 外見美醜 身長 体型 服装 化粧美醜
女性のほうがチェックポイントが多いのは、女性が好きなのもあるが、女性のほうが多彩で(男にとっては)根拠のない思考をするからである。次に
- 気になった挙動を暗記する
- 気になった言葉を暗記する
あとになってさまざまな情報として総合的に判断する。
外見がポイントになるのか?といわれれば私の経験では外見8割・挙動言動2割ぐらいの比率で外見に多くの情報が出されていると考えている。
化粧した女性が化粧をしない女性より能力が高い
という研究があるのをご存知だろうか?事務的能力にしろスポーツにしろ処理量が多くなるそうである。ちなみに男性は化粧してもまったくかわらない。*4
人間という動物の本能
実感として人間は顔や体型の美醜による差別区別はなくなるとお考えだろうか?私は亡くならないと考えている。同様にジェンダーフリーも決してなくならない。そこにおそらく人類の種に対するある種の防衛本能があるからではないかと考えている。
飽きるまで話し合って結婚したカップルが離婚する。双方一目ぼれで結婚したカップルは離婚しにくい。これは私の周囲でよくあることで、とてもサンプル数が少ないが、そういう傾向があるように感じている。もちろん多くの人はこのサンプルにあてはまらない。適当なステップを踏み一般的な結婚は双方が誤解のまま結婚して誤解のままの状態を維持する。男女とはそういうものなのだと思う。一生続く関係を保つ人を選ぶとしたら言葉だけに頼ってはいけない。男女ともにむしろカンがものをいうのである。
人間のカンの重要性
教育はカンを排除したモノの考え方が強要される。もちろんこれは社会生活上さまざまな能力の1つとして重要なものである。ところがカンを否定する教育も行われている。カンをそぎ落とすということは防衛本能を削り落とすということである。そういう人間が大量に大人になってもさまざまな悪意に巻き込まれるだけで決して幸せにはなれない。
例としてサブカルのとりあげすぎをあげてみよう。カルチャーとサブカルチャーは決して逆転してはならない。サブカルの好きな女性は危ない男性を呼び寄せやすい。サブカル好きである程度の年齢の人は合点のいくところもあるのではないかと思う。そういうにおいを発してしまうのである。それでも天然や腐女子は安全地帯を確保していることが多い。モノにはそれなりの道があるということではないかと思う。
人間そんな簡単には変えられるものではない。サブカルが好きには業を背負う。それを理解して対処法を身につけることである。
あとがき
説教をしている私のほうが一般より外れていることだろう・・・。