日本はどうだったか?

倭国という称号を捨て、日本という国号に変えたのは7世紀ごろだったかと思います。

倭国

日本は中原の覇者(黄河中流域)からさまざまなものを輸入しました。その1つが倭国という国号。「漢委奴國王(かんのわのなのこくおう)」なんて金印が歴史教科書に載っていたかと思いますが、これは自国の国号を自国で決められない中国の属国であるというしるしです。朝貢貿易(貢物として金目のものや奴隷や美人(今でいう慰安婦)を差し出す)するかわりにわが国を守ってくださいという契約です。政治的な意味合いもある程度はあるでしょうが、これは主権国家ではありません。

日本

日本という国号を使い出したのは8世紀ぐらいだったかと思います。聖徳太子が天子(中原の覇者)に対等の立場の手紙を送ったというのを歴史教科書で習ったと思いますが、そのちょっとまえぐらいからです。この話はアジアの王国にとって衝撃として伝わりました。中原の覇者に守ってもらわなくても国として成立してしまったからです。理由はたくさんあるでしょうが、一番大きいのは海を隔てていたことでしょう。日本の国境意識はユーラシアの国境意識より8世紀もさかのぼることになるからです。逆に、国民国家意識は戦中も他国ほど高まることもなく現在に至っています。

〜戦国

(略)

江戸時代の日本

江戸時代は幕府が藩を管轄し、藩が土地を管轄する。という2段階の制度を用いていました。藩ごとに軍隊がいたということになります。ユーラシアの王国制度や封建制度に似ているという指摘がありますが、以下の点で全然違ったということがわかるでしょう。

  • すべての藩を直轄する幕府の存在があるため、藩同士の戦火がなかった
  • すべての藩には貨幣の経済運営に成功することが藩の民のために義務付けられており、それに失敗した藩はおとりつぶしになりました
  • 戦火がないために町人文化がうまれ金余り現象を起こし、才能と運があれば絵や演劇だけで一生を暮らせる人がいました。
  • 主要街道の整備が早かったため、伊勢参りに行くのが女性の一人旅でも可能でした。

明治時代以降の日本

江戸末期、黒船が来航する1年前、幕府は長崎の外交ルートから

  • 黒船の戦力
  • 数8(4つは合流できなかった)
  • 船長(ぺるりと漢字で記載されていたそうです。ペリーのことですね。)
  • 目的

などを詳細に書かれたレポートを受け取っていました。日本の情報収集能力は世界でも有数レベルといっていいでしょう。残念ながら情報を生かす能力は平均レベルしかありませんが・・・。
すくなくとも西洋式軍隊が強いという認識は徐々に広がり、そのなかでも国民国家の軍の強さに目をつけた数名います。もちろんそれに気づいたのは薩長だけではなく徳川も恭順という意思を示すことによって、新国家設立への筋立てを手伝っています。徳川が本気で戦ったら薩長はつぶされていたでしょう。恭順の意思を示すものを執拗に追いかけるのは国際法違反だと薩長側が釘を刺される場面もあったそうです。
ここまでは軍隊ばかりの話をしましたが、経済と軍隊は車の両輪です。時間があれば日本を天皇を中心とした国民国家の国にして、国軍を創設すれば不平等条約も開国もせずに町人が楽に暮らせる時代を築けたことでしょう。その経済力について、欧米にかなわなかったため開国要求をのみ、不平等条約をむすんだのです。
以後、貿易を活発にして経済も西洋流をアレンジしてめきめき力をつけ、軍隊が強くなります。